薔薇と犬 特別版 (シャレード文庫)
今城 けい/Illustrator 海老原 由里様
熱夜の逢瀬
まさか大晦日をニューデリーで過ごそうとは思わなかった……。
インディラ・ガンジー空港のコンコースを歩きながら、成瀬はしみじみそう思う。
成瀬がモルドニアの大使館に再赴任して八カ月。年が明ければ政府高官がこちらに来るから、年内の帰国は無理だ。日本に帰るのは早くて翌年の二月あたりになるだろう。
年末年始の予定を聞かれ、五辻にはそう言って、成瀬もそのつもりでいたが、結局彼に告げたようにはならなかった。政府高官のモルドニア訪問はその当人の脱税疑惑であっさり取り消しになったのだ。
予期しない変更で当地の外交筋との折衝はあったもの、迎える段取りよりキャンセルが楽なのは当然で、十二月三十日の夕方には仕事がぜんぶ片づいた。
――帰ろう。日本に戻って、五辻に会おう。
そう思うと、いてもたってもいられなくなり、成瀬はチケットが取れるやいなや飛行機を乗り継いで成田に向かった。
なのに……。
翌朝着いた成田のロビーで電話をかけたら、五辻は携帯の電源を切っている。
彼はたしか、元日前後の四日間は休暇を取ったと聞いていたが。
成瀬は首をかしげたが、結局その三十分後にとんでもないことが明らかになってしまった。
「五辻か。おまえは今どこにいるんだ。……え。イリアの空港!?」
五辻は休暇をもらうとすぐにモルドニアに向かっていたのだ――たとえ少しの間でも成瀬に会おうと考えて。黙っていて、驚かせようと考えたのはどちらも同じで、結果として完璧にすれ違った。
「しかたがない。真ん中で落ち合おう」
「真ん中とは、どこですか」
「インドのニューデリー。インディラ・ガンジー空港で待っている」
モルドニアから日本へ直行する飛行機の便はない。限られた休暇の中で、おたがいに少しでも早く合流したかった。それでふたりは大慌てでボーディングチケットを買い直し、数時間後に中間地点に到着した。
空港でようやく会えた五辻は紺色のコートを着ていて、この地域の気候には合っていない。
「見るからに暑苦しい格好だな」
「……成瀬書記官も」
それぞれ冬の東京とモルドニアをめざしていたのだ。ニューデリーの気温に向いた服装は考えていなかった。
どちらともなく苦笑して、空港からタクシーに乗る。
まもなく着いたのは濃い緑に囲まれた現地のホテルで、少し先には肥沃な河が蛇行しながらゆったりと流れている。
通されたホテルの部屋のバルコニーから遠く広がる景色を眺めて……しかし五辻のほうは悠久の時の流れを感じてはいないようだ。室内に入るなり、きびきびと周囲を点検するようにしきりと歩きまわっている。
なにをしていると訊ねたら、安全確認と返事した。
「それは、もういい。……わたしは疲れた。座りたい」
言うと、五辻が手近の椅子を持ってくる。成瀬は五辻におまえが座れと指差した。
「私が、ですか」
いぶかしみつつ、それでも五辻は成瀬の命令にしたがった。
成瀬は五辻が椅子に座ったのを見届けてから、自分もまた腰を下ろした――スラックスにつつまれた男の膝を椅子として。
「な……成瀬書記官!?」
仰天する男の膝に横座りになりながら、澄まして成瀬が話しかける。
「思わぬ場所に来てしまったが、この近くにはジャンタルマンタルがあるからな。明日はそこの天文台を見にいこうか」
「それは……いいですが」
「それともプラーナ・キラーのほうにしようか? ここからは少し離れた場所にあるが、古城を見にいくのもいいな。今夜、ホテルのレストランで食事をするとき、ナンと玉ねぎとチキンのランチを頼んで……」
話す途中で五辻にぎゅっと抱きしめられた。ごく間近から男が真剣な眸で見据え、低い声で聞いてくる。
「こうしていても余裕ですか? あなたはそうでも、私は……」
切羽詰まった苦しげな口調だった。成瀬は幅広い彼の背中に腕をまわして唇を近づける。触れ合う寸前で顔をとどめて、
「余裕なんかあるものか。おまえがこんなに近くにいるのに……しゃべっていないと気がおかしくなりそうだ」
早口でささやくと、唇をふさがれた。
強い両腕が鎖のように成瀬を男の肉体に縛りつける。苦しいほどきつく抱かれて、唇が触れ合うなり男の舌を含まされる。口腔の粘膜を掻きまわされて、舌を男の濡れた肉塊で嬲られると、いっきに身体が熱くなる。
「ふ……うっ……ん、んん……っ」
眸を閉じて、男との口づけに酔いしれながら……古城も天文台もいらないと成瀬は思った。
インドだろうと日本だろうと、どの国でもかまわない。
五辻がいれば……自分を抱きしめるこの腕がありさえすれば、自分にとってはどんな場所でもそこが最高なのだから――。
ルナノベルズ「薔薇と犬」より。(現在はシャレード文庫特別版です)成瀬と五辻の番外SSです。