七月五日(曇のち晴)

「黒デビル。お前は此処だ。ちょっとの間窮屈だけどな。道路が混まなきゃ二時間ほどで出してやるから」
 私の同居人、ヨウイチがそう言って、猫用のバスケットを車の後部座席に置いた。もう一人の同居人、ヤナギが私を自分の腕からバスケットに移し替える。
 私は確かにマンション猫ではあるのだが、どこかに閉じ込められるのは決していい気分ではない。特に窮屈なケースの中に入れられるのはトラウマ絡みで好きではなかった。
 けれどもまあ、ヨウイチが一泊旅行を楽しみにしているらしいし、(表情には出さないが、おそらくヤナギもそうだろう)少しの不自由は我慢しようと考えた。
 やむを得ず狭い空間に身を移して寝転ぶと、私は色んな方向に自分のヒゲを動かした。
 車内には雑多な匂いが残されている。煙草や、香水や、さまざまな人間の体臭などだ。この車の持ち主はヨウイチではなく、借りてきたものだから、それも仕方がないのだろう。人間には判別出来ないそれらの匂いを嗅ぎながら、私はとりとめのない物思いに耽っていた。
(この間ヨウイチがお土産に持って帰ったササミ缶は美味しかった)だの、
(ボス猫ブッチに、旅行へ行くと言って来ればよかったな。あいつは旅行をしたことなんかあるのだろうか)とか、
(梅雨が明けると途端に暑くなるんだろうな。私は秋が一番好きだが、春の次に秋という訳にはいかないものかな)
 そんなことを徒然に思い浮かべていたあとで、私はふとあの夜の情景を思い浮かべた。
 ヨウイチが怪我をして戻ってきた雨の夜。ヤナギが自身を傷つけてまで、ヨウイチと繋がることを必要とした、あの夜の出来事だ。
 あれからヨウイチは壊れ物を扱う動作で、細い肢体を両腕に抱き上げた。そうしてヤナギを彼のベッドの上に降ろすと、自分はその脇に腰を下ろした。
「今夜は朝まで此処にいるから」
 生成り色のブランケットをそっと身体に掛けてやり、ヤナギの髪を優しく撫でる。
「傭一……違う」
「何が」
「……俺は……間違ったことを言った……傭一が痛いのも苦しいのも嫌なんだ。なのに、どうして……」
 ヨウイチはヤナギの頬に手を当てた。
「あれは柳が間違った訳じゃない。俺が柳を追い詰めて、そうするしかない気持ちにさせた」
 だけどな、とヨウイチは言葉を継いだ。
「一つだけ約束してくれないか」
「何を?」
「もうあんな無茶をするのはやめてくれ。俺だって、柳が痛いのも苦しいのも嫌なんだ。今度もし、俺としたくなったときには、『したい』と言葉にしてくれないか。そうすればもう二度とあんな目には遭わせないから」
「うん。俺は傭一と約束する」
 どこかが痛んでいるように眉間を顰めた男の顔を仰ぎ見て、ヤナギは素直にうなずいた。それから何か言おうとしたのか、薄く唇を開きながら片手を伸ばす。けれども指が脇腹に触れようとして、その瞬間ヤナギは口を噤んでしまった。ヨウイチがそこに傷を負っているのを思い出したからだろう。中途半端に腕を引き、その状態で固着して動かない。
 それを見て、ヨウイチはふっと笑った。ヤナギの手を取り、身を折って、その上にゆっくり顔を伏せていく。
 コーラルピンクの綺麗な柳の唇は、先ほどの無茶な振舞いの後遺症で、自身が傷つけた痕がある。薄っすらと血の滲む唇に啄ばむように何度か口づけ、
「あのな。今俺は猛烈に柳のことが欲しくなった。さっき柳に傷をつけたのは判っているが……優しくするから、柳を抱いてもいいだろうか」
「うん……俺を傭一は抱いていい」
 抱き締められて、ヤナギは自らもその手をヨウイチの背中に回し、変らず抑揚はないもののほんの僅かに揺れる声音を紡ぎ出した。
「優しくする必要はない。俺も傭一としたいから」

 ――いつの間にか私は眠っていたようだ。後部座席のドアが開いて、私は目蓋を持ち上げた。
「黒デビル。着いたぞ、此処だ」
 高原の中に建つ赤い屋根の山荘は、何でもヨウイチが『事件』に関係するうちに知り合った人物のものだそうだ。
 その人はヨウイチに感謝の気持ちを持つらしく、こうして別荘に招待してくれたらしい。本人はあいにく顔を出せないが、別荘番の夫婦がいるから食事その他の心配はないとのことだ。
 おそらくはヨウイチ達が気兼ねなく別荘で過ごせるように相手が配慮してくれたのだ。
 私は二人の会話から、それらを既に知ってはいたが、こうしてあらためて見てみると思っていたより遥かに立派な別荘だった。
 エントランスは吹き抜けで、広いホールには本物の暖炉がある。奥のサロンは贅沢な調度が置かれ、二階の客間は何室もある。
 ヨウイチ達が通されたその部屋は二階の一番奥にあり、オーク材の大きなベッドはシングルサイズの優に三つ分はある。コネクトルームのリビングは全体を焦げ茶と臙脂の色調でまとめてあって、重厚で落ち着いた印象だ。
 寝室からは涼やかな林が望め、白い板張りのベランダはデッキチェアーとパラソルが楽に置ける広さだった。そのうえ其処にはジャグジーの設備までもあるようだ。
 もっとも私に関して言えば、泡の吹き出る風呂になど興味はない。思う存分室内を探検したあと、好奇心に駆られるままに屋敷の中をうろついてみた。
 結果私が判ったことだが、どうやら別荘の持ち主は猫を飼っているらしい。此処にも猫を連れてくる為、それ用の出入り口が台所の隅にある勝手口に設けてあった。
 私はそこから庭に出て、非常に楽しい時間を過ごした。
 街中のマンション猫には、緑豊かなこの場所は見るもの聞くもの何もかもが珍しい。陽が傾いて、辺りが薄青くなってから、背中についた葉っぱと蜘蛛の巣をお土産に悠々と屋敷に戻った。
「ほうらね。こうして猫ちゃんは無事に帰ってきましたでしょう? この辺はめったに車も通らないし、溺れるような川もないから心配はないんですよ」
 別荘番の奥さんの言葉を受けて、台所の入口に立っている長身の男が私に目を向ける。憮然とした表情だったが、口に出しては何も言おうとしなかった。
「はい、こっち。ご飯ですよ」
 私の背から葉っぱを取って、優しい笑顔の奥さんは水とエサを差し出した。途端、食欲が芽生えた私は一口残してそれらを一気に平らげる。そのあとで、口の周りを舌で舐め取り、満足げに「にゃあん」と鳴くと、ヨウイチが呆れたように苦笑した。

 そして夜。夕食を終えた二人は、ベランダから満天の星空を眺めることにしたようだ。
「こうして見ると、『星の数ほど』なんて言葉が実感できるな。まるで空に落っこちそうな気分がしないか」
「それは不可能だと俺は思う」
 ロマンチックな気分を挫かれ、つかの間ヨウイチは黙したが、ややあってめげずに言った。
「あっ、あの星は彦星っていうんだろ。あさっては晴れるといいな」
「どうしてだ」
「あさっては七夕だろう。織姫と彦星が一年一度のデートの晩だぞ」
「それはただの伝説だ。あれはわし座のα星、アルタイル。0.8等星で、距離にして17光年。赤道での自転速度は毎秒260キロ。直径は太陽の1.7倍の大きさで、自転周期は6時間半」
「……いやまあそういえばそうなんだがな。星にまつわる伝説とかロマンとか」
 なおも未練げに夜空を見ながらヨウイチは呟いている。その横顔を眺めながら、ヤナギがヨウイチの名前を呼んだ。
「え、何だ」
「したい」
「は?」
「俺は傭一と約束をした。したくなったら、そう言うと」
 ヨウイチは眸と口を開いたが、まもなく驚きは苦笑へと、それから相手が愛しくてたまらぬような微笑へと表情を変えていった。
「なるほど、そうだな。俺もロマンなんかより、そっちのほうがずっといい」
 そうして降るほどの星の下、ヨウイチはヤナギの唇に口づけた。

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