六月二十二日(雨)

 雨の匂いのする夜を私はそれほど嫌いではない。アスファルトとコンクリートに固められた町の中でも、潤う草木とその下に潜んでいる生き物達が水に濡れてそれぞれの匂いを放つ、それを嗅ぐことが出来るからだ。
 しかしその夜、私はそれを楽しむような気分にはなれないでいた。
 昨夜からヤナギは一睡もしていない。ヤナギは私の同居人で、他にもう一人、ヨウイチという落ち着きのない暮らし振りの男と一緒に生活している。ヨウイチの帰宅時間はたいてい遅く、その時間もまちまちだ。対してヤナギの日常は判で捺しているかのように決まりきった手順を踏んで流れていく。
 昨日ヨウイチはついに帰って来なかったのだが、それが予定の通りだったらヤナギが服も着替えずにソファに座っていた筈はない。
 今日のヤナギは定刻で帰宅したのち、自室のパソコンを立ち上げてキーボードを打っていた。その事自体は珍しくもないのだが、何でもないと思うにはヤナギの顔色が悪過ぎた。
 白磁のようなその頬は、本当に血の通わないこしらえ物であるかのように見えている。
 夜半になってから、ヤナギは自分の部屋を出て玄関が見通せる通路まで足を運んだ。白いシャツとグレーのスラックスに包まれたヤナギの肢体は一般の男性よりも線が細い印象だ。その繊い指の先がわずかに震えているのに気づき、私の胸にわだかまる不安がいっそう大きくなった。
 おそらくヨウイチの身の上に何事かが生じたのだ。
 どんなときでもヤナギの感情を動かせるのはヨウイチ以外にないからだった。
 しかしほどなく玄関のノブが回り、見慣れた大男が姿を見せた。髪が湿っているものの、目つきの悪いその顔に特に変った点はない。
「柳。その」
 けれども私はヒゲを動かし、尻尾を垂直に立てていた。気まずい顔で口を開いた男から違う匂いがしたからだ。消毒薬と微かに感じる――血の臭気。
「多分識っているだろうが、先に言う。取材はもうすぐ大詰めだ。これはまあその為の副産物みたいなもので、全然大したことじゃないから」
「識っている。傭一が昨日から追っていて、今夜探し当てたのは覚醒剤中毒の男だった。傭一がアパートを訪ねたときには、同棲していた男性と別れ話の真っ最中で、錯乱状態になった男は出刃包丁を振り回し相手を殺そうとしていたところだ。傭一はその男性を助けたが、代わりに自分が傷を負った」
 抑揚なく語られるその声に、ヨウイチはまいったというふうに首を竦めた。
「はずみで包丁が脇腹を掠めただけだ。ほんとに大した――」
 声が中途で切れたのは、ヤナギが玄関まで足を進めてヨウイチの足許にひざまずいたからだった。
「なっ、柳、何して」
 まだ靴も脱がないで立っていたヨウイチは、スラックスの前を開かれて大いに慌てた。
 焦って押しのけようとする男の腕に逆らって、ヤナギは取り出した男のものを口に含んだ。
「待てっ。柳、いきなり何を」
 珍しくヨウイチが狼狽した声を出す。しかしヤナギは顔を離さず、男の欲望を育てていった。
 咥えた先端を熱心に舐めしゃぶり、茎の部分にも舌を這わせる。
「ん……んっ……」
 ぴちゃぴちゃと卑猥な水音が立ち上がり、ヤナギの顎を溢れた唾液が濡らしていく。
 人形めいて精緻な顔立ちは、普段まったく欲望とは無縁の印象を与えるだけに、男に奉仕する様は目眩がするほど艶かしい。
 見下ろすヨウイチの視界にも、それは途方もなく扇情的な眺めとなって映っていたろう。
「柳。もういい」
 と洩らした声は低く僅かに掠れていた。
「心配かけて悪かった。とりあえず、リビングに」
 行かないか。と言うつもりだったのだろう。けれども声は途中で消えた。ヤナギの口からヨウイチが自身のそれを引き抜いて、宥めるように言いかけたとき、いきなり腕を引かれたからだ。
「うわっ!?」
 ヤナギは両腕でヨウイチにぶら下がり、無理やり膝をつかせると、驚く男の目の前で自分の下衣を取り去った。
「ちょ、ちょっと待てっ」
 驚愕のあまりだろう、自分よりもずっと華奢な体格にもかかわらず、ヨウイチはヤナギに仰向けに押し倒された。
「ばっ、無茶するな!」
 ヨウイチは完全に泡を食って肩を起こした。
 男の身体に馬乗りになり、ヤナギは自分の体内にさきほど育てた欲望を呑み込もうとしていたのだ。
「やめろ、柳。お前の身体が……!」
 ヤナギは微塵も躊躇せず、一息に腰を落とした。
 滅茶苦茶な行為だった。身体を引き裂かれる苦痛の為か、噛み締めた唇に血が滲む。
「柳……」
 茫然と瞠目している男を見下ろし、ヤナギは静かに声を発した。
「こうしなければ、駄目なんだ。たとえ傭一が苦しくても、痛くても。こうして繋がっていなければ、駄目なんだ」
 そうでなければ――壊れてしまう。脆く、あやういヤナギの心が。
 私がそう感じたことをヨウイチも思ったらしい。上体をゆっくり起こし、ヤナギを胸に抱き取った。
「ごめん、柳……お前を苦しめて……傷つけた」
 ごめんな、と洩らす声は苦しげで。
「俺じゃない。怪我をしたのは傭一だ」
「うん……それでも、ごめん……」
 ヨウイチから漂う匂い。雨と、血と、消毒薬と――それからヤナギ。
(これは、何と呼ぶのだろうか)
 愛と言うのは容易いが……。
 私はその場から動きも出来ず、扉の向こうにある筈の雨の幻影を視続けていた。

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