五月六日(晴)

 自分の想いを伝えるとき、猫は言語という複雑な機能を持たない。
 私は生まれたときから人と住んでいるのだが、それでも彼らが操る言語を完璧に理解したとは言えなかった。
 私が人間達の思惟を読もうとするときは、まずはその仕種や表情で判断する。その次に決め手になるのは声の響きだ。嬉しいのか、怒っているのか。それくらいなら声を聞いているだけで、顔を見なくても判断出来る。それには自信があるのだが、一部の人間に関しては少し勝手が違っていた。
 私は現在人間の男性二人と暮らしているが、その思惟を汲み取るためには充分な注意深さと経験が必要だった。もちろんそれは彼等の内の一人であるヨウイチのことではない。
 この男は低く深みのある声質の持ち主で、決して多弁な方ではないが、自分の意志を無理押しせずに通す遣り方を心得ている。私の知る限り、彼が声を荒げたことなど一度も無いが、それでもその音声を耳にすると勝手に片耳が立ち上がる。
 あえて従わないことはあるが、軽んじることも無視することも出来ない意思。私にとってヨウイチの声とは、つまりはそういうものだった。
 そしてもう一人、ヤナギについては格別な思いがある。彼は感情を一切音声に含めない。表情も仕種もそうだ。だから最初、この男には感情がないのかと思ったが、しばらく一緒にいるうちにそうではないことが判ってきた。
 この男にも心の揺らぎがちゃんとあり、それが声に滲み出ている。そのことが判るまで、しばしの時間と充分な注意深さが必要だった。
 しかし私は着実に彼の声から微細な変化を汲み取るコツを覚えていった。
 普段ヤナギが発する声は、硬く澄んでいて抑揚が無い。それでもヨウイチが傍にいるとき、彼の声は微妙に揺らぐ。
「ヨウイチ」
 と呼び掛ける彼の声で、その感情を察することが出来るようになったのは一体いつぐらいからだろうか。
 甘えているのか、困っているのか、自分でも判断出来ない鬱屈した想いがあるのか。それらを察知することは今でも多大な注意を必要としていたが、まったくの理解不能と言う訳では無くなっていた。
 ヤナギが何か話すとき、私は両耳を立ち上げる。そうして意識を集中し、理解しようと努めるのが常だった。
 ただ、それには例外も幾らかあって、夜に聞こえるあの声だけは集中力など必要なかった。時折ドアから洩れ聞こえるヤナギの声。それは甘く柔らかく、そして脆く――ヤナギにとってヨウイチが唯一の存在、心を開き、身を委ねることの出来る相手――そうした想いが、喘ぎ乱れるその声にはっきり表れていたからだ。

 そのように、彼らが互いを大事に想っていることは私にも判っていたが、いつも一緒と言う訳にはいかないようだ。ある日のこと、ヨウイチが言い難そうに切り出した。
「柳。その、今日は急な取材が入って出掛けなくちゃならないんだ」
 またか、と私は思う。出たり入ったり、この男は休日など無いかのように慌しく暮らしている。定期的に休みを取るヤナギとは対照的だ。そのヤナギは軽くうなずき、
「うん。判った。俺は此処で傭一を待っている」
 済まないな、とヨウイチは玄関の方を向いたが、突然肩先を後ろに戻した。
「悪い、柳。俺は恋人としてろくでもないな」
 心底済まながっているような声音だった。
 ヤナギは束の間黙していたが、ややあって口を開いた。
「それでは俺の恋人として、傭一にひとつ頼んでもいいだろうか」
「あ、ああ。何だ」
「今日帰るとき、キャットフードを買って来てくれ」
「……それだけか」
「そうだ」
 訝しげに首を振りつつヨウイチは出掛けていったが、私にはヤナギの想いが何となく判っていた。
 買い物を頼んでおけば、今日一日帰って来るまでヨウイチの心の隅にはいつもそのことが残っている。ヤナギの言葉を忘れないで覚えている。
 そのような判断はもしかしたら的外れだったのかも知れないが、ひとつだけ明確に判っていたことがある。
「俺の恋人」
 そう発したヤナギの声は、嬉しさと誇らしさを滲ませていた。
 おそらく今夜ヨウイチが帰って来たら、また『あの声』を聴くことになるのだろう。
 それまでは……と私はヤナギの膝に乗り、ブラッシングを催促するときの声を出した。

                     

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