十月二十七日 (晴時々曇)

 人間の生活は、柵あり義務ありで窮屈だ。気儘に暮らせる猫の方がずっと良い。
 私は常々そう思ってきたのだが、時には人間も日頃の枷を取り払い、奔放な振る舞いをすることもあるらしい。
 その日の晩。午後十時を回った時刻。ヨウイチが勢い良く玄関の扉を開いた。靴を脱ぎ散らかしてキッチンに直行し、水のボトルを冷蔵庫から取り出した。ボトルに直接口をつけ、かなりの水を咽喉奥に流し込む。それから片手で濡れた顎を拭き払い、リビングに顔を出しつつ、「ただいま」とヤナギに言った。
 ヤナギはすぐに返事をしない。
 儀式のようにこれは必ず行うことだが、ヨウイチを視界に収め、彼を確認するまでは口を開こうとしないのだ。
 気のせいか、このときはいつもよりほんの少し時間がかかっていたようだ。
「傭一」
「うん。俺だ」
 言って、ヨウイチはソファに座るヤナギの隣に腰を下ろした。
 秋晴れの日曜日。ヨウイチは朝から出掛け、ヤナギと私は穏やかな時間を過ごした。
 少なくともこのときまではそうだった。それがヨウイチの帰宅と共に静謐な雰囲気が一気に霧消してしまった。
 普段のヨウイチは目付きが悪く、一見危ない職業の男のようだが、きわめて真っ当な思惟と行動を見せる男だ。常識も、良識も、人並みにはある方だろう。
 だが、ヨウイチは真顔でヤナギの顔を見つめ、「綺麗だな」と唐突な台詞を吐いた。
「それに可愛い」
「……傭一は酔っているのか」
 一瞬間を置いてヤナギが聞いた。
 昨夜交わされた二人の会話を聞く限りでは、今日ヨウイチは同僚の結婚式に行っていた筈だった。現にヨウイチは黒いスーツに白いネクタイを締めていて、いつもと違う服装になっている。そのネクタイを無造作に緩めつつ、
「あー、うん。少しは飲んだな」
 言葉と共に出される呼気にはアルコールの匂いが混じる。
 少し、ではなく、相当飲んで来たのじゃないか。
 人間よりも鼻が利く私には、ヨウイチが帯びる酒気は通常以上に濃いものだと判っていた。
「そうだ。黒デビル。お土産を買って来たんだ」
 いきなりヨウイチが立ち上がり、大股で玄関へと向かっていく。どうやらそこへ置きっぱなしの紙袋から何かを取り出して来るようだ。
 私は呆れてヨウイチの背中を見、それからヤナギに視線を転じた。
 ヤナギは端然とソファに座り、首だけ向けてヨウイチを目で追っている。ヤナギは感情が表情には出ないから、彼が呆れているのかどうか、私には判らなかった。
「そら、黒デビル。これを見てみろ」
 紙袋を乱暴に破る音。しかし私はラグマットの上に丸まり、そちらに視線を向けなかった。
 夕食は既に済ませていたのだし、缶詰のキャットフードを追加で食べたいとは思わなかった。
 けれども、ヨウイチが突き出したものを見て、私は背中の毛を立てた。
 目の前で泳ぐのは、白くふわふわした丸い塊。大きさは人間の拳ほど。
「ほーら、どうだ」
 白い塊は棒の先についている。ヨウイチが握ったそれを動かすと、ふわふわ塊が移動した。何故とはなく無性にそそられる動きだった。
 あれをどうしても捉まえたい。
 一瞬後、私は全身を発条にしてそれに飛びつく体勢でいた。
「残念。こっちだ」
 僅差で白毛の塊は私の前脚からすり抜けていく。
「そら、ここだ」
 ヨウイチは巧みに棒を操って、私に白玉を捉まえさせない。
 口惜しいが、私は近所の野良猫達と比べると敏捷性では遥かに劣る。ヨウイチの動きに翻弄されるまま右に左に身体を動かし、ついに力が尽きてしまった。
「傭一。黒デビルは限界だ。もう止めた方がいい」
 見兼ねたヤナギが取り成してくれ、ヨウイチが棒を引いた。これで終わりだと思っていると、
「それじゃあ続きは柳がするか」
 この酔っ払いめ。戯言にも程がある。人間が白玉を本気で追うと思うのか。
 憤然として思ったが、柳はうんと首を振った。
「続きの相手は俺がする」
「へえ、面白い」
 ヨウイチは腰を上げ、ソファから少し離れて棒を振った。
「来い来い」
 白玉目指して駆け出すヤナギを私は茫然と見送った。
 よもやヤナギが本気で乗るとは思わなかった。
 ヤナギは一滴も酒を飲んではいない筈だが。まさかヨウイチが吐き出す酒気に当てられてしまったのか。
「惜しいな、こっち」
 間際でヨウイチが棒の向きを振り替えた。ヤナギの指が空を掴む。ヨウイチはその場からほとんど動かず、身体の向きを変え、棒を左右に持ち替えることによって、ヤナギの手を逃れている。
 酔ってはいても素早い動き。おまけに彼は背も高く、腕も長い。ヤナギはヨウイチの周りを巡り、手を伸ばしても届かない。懸命に背筋を伸ばし、片手を挙げたときだった。
 不意にヨウイチが上に伸ばした手を下ろし、それをヤナギの背中に回した。自分の胸に細い身体を引き寄せて、耳元に囁き掛ける。
「抱いてもいいか」
「うん。俺を傭一は抱いていい」
 一瞬も躊躇わずヤナギが答える。するとヨウイチはヤナギの胴に腕を回して自分の脇に抱え込んだ。
 まるで盗賊が分捕り品を抱える仕種だ。
 彼はごく稀に乱暴な仕種をするが、それがまた実に似合う雰囲気なのだ。
 おそらく彼は自分がそうだと思いたがっているほどに、穏やかな常識人ではないのだろう。
 普段は上手に隠しているが、彼という男の底には荒振る血が流れている。
 ――などという感想を暢気に考えていられたのはここまでだった。
「ああ、そうだ。お前も来るか」
「ニャアッ」
 残る片手でヨウイチが私を掬い上げたのだ。
 止めてくれ。私は違う。関係ないっ。
 暴れたが、男の力に敵わない。ヨウイチは一人と一匹を脇に抱えて自室のドアを蹴り開けると、それらをベッドに放り出した。
 私は急いでベッドを飛び下り、部屋を出ようとドアへ向かった。しかし、私の鼻先でドアは閉まり、自力で脱出は不可能になってしまった。やむなくベッドの下に潜ると、ヨウイチはそれきり私の存在を忘れたようだ。
「柳。脱げよ。お前の全部を見せてくれ」
 ベッドが軋み、衣服の擦れる音がする。ヤナギはおとなしく言うとおりにしたようだ。
「仰向けに寝て。そうだ。柳――触って欲しいか」
「触って欲しい」
「どんなふうに」
「どんなふうでも」
「それじゃあまずは此処からだ」
 ヤナギが思わず息を呑む気配がする。
「どんな感じだ」
「……痺れが……胸から……」
「此処に来るのか」
「……っあ」
 ヨウイチは執拗で容赦がなかった。ヤナギの身体中に触れ、どんな感じがするのか言わせ、ぎりぎりまで快感を高めていくのにその先は与えなかった。
「もっと脚を開いておくんだ。自分の両手でこう持って」
「あ……よ、傭一……っ……」
「何だ、柳」
「も……欲しい……っ」
 掠れて乱れた声音が洩れる。湿った音を響かせながら、男が更に問い掛けた。
「何が欲しい」
「よう、いち……が……」
「俺のもので身体の奥を掻き回して欲しいのか」
「そ……うだ……どんなふうにしても、いいっ……俺は、傭一のものだから……っ」
 途切れがちに訴えるその声は、苦しげだが同時に甘やかな悦びをも孕んでいた。
 まもなくベッドが大きく軋み、私の頭上で悲鳴にも似た叫びが上がる。
「よ……いちっ……ど、んな……感じだ……っ」
 規則的にベッドの軋む音に混じって、ヤナギのか細い声がする。次いで動作の合間に発する低い男の声が聞こえた。
「柳の中は気持ちがいい……温かくて、柔らかく、どこまでも俺を締めつけて離さない……柳の此処は最高だ」
「そう……か」
 よかった、と微かな呟きをヤナギは洩らした。
 そのあとはもう事細かに言うまでもないだろう。二人は愉悦の深みに沈み、思う存分快楽を分け合っていた。

 そして翌日。ヤナギは定刻に起床した。通常よりは緩慢な動作でもって、脱ぎ捨てていた衣服を拾い、ドアの方へと足を進める。そのとき傭一が目覚めたらしく、上体を起こして聞いた。
「その……柳。俺は昨夜酔っていて、記憶がほとんどないんだが……柳に無理をさせなかったか」
 おいおい、と私は思った。ベッドの下から這い出ると、ヤナギがドアを開くのを待つ。
 昨夜あれほど無理と無茶を連発したのを覚えてはいないのか。
 しかしヤナギはゆっくりと振り返り、
「いや。普通だった」
 ヤナギに続いて部屋を出ながら、私は内心呆れ返った。
 あれが普通と言い切れるヤナギの心情が判らない。
 驚きつつも、ヤナギを見上げて――そして、何となく理解した。
 ヤナギの眸は常より潤み、いつにも増して唇が綺麗な珊瑚色だった。
 おそらく人間は時折嵌めを外すことが必要なのだ。普段の自分を束の間離れ、恣に振舞うことが。
 まったく理解し難いが、どことなく満たされた様子でいるヤナギの姿を見ていると、そうとしか思えない。
 猫で良かった……と、私は自分の身の上を心から感謝しつつ、キャットフードを残してある皿の方へと駆け出した。

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