七月二十日(晴)

 猫は熱い食べ物が苦手である。だから猫舌、などという単語が生まれた。
 これは真実か、それとも虚偽の経緯なのか。
 他の猫はいざ知らず、私の場合はその通り。私は総じて熱い食べ物を好まない。
 大抵はキャットフードを食しているから問題はないのだが、仮に煮炊きをしてあるエサを目の前に出されたときは充分冷まして食べたいものだと考えている。
 このことは、出来ればそうしたいというような範疇ではなく、過去の経験に基づいた固い決意だ。なぜなら以前の飼い主は、気が向けば無制限に食べ物を与えたからだ。甘いもの、脂っこいものはまだましで、あるときはまだ熱い煮豆を私の目の前に放って寄越した。動くものが目の前に落ちてきて、私は猫の性として、反射的にそれを押さえて噛みついた。結果は前歯に熱い煮豆がへばりつき、私はみっともない悲鳴を上げつつ前足で口を擦った。
 その格好が面白いと、以前の飼い主は楽しそうに笑ったものだ。
 私は飼い主の無配慮から貴重な教訓を得た訳だったが、幸い現在の同居人、ヤナギはそのようなことはしない。彼はたまに茹でた鶏のささ身をくれるが、そのときは必ず私の舌に合うような温度にしてある。もうひとりの同居人、ヨウイチも時折お土産を買ってくるが、こっちは大抵缶詰のキャットフードか袋に入った乾しカマだ。
 これならば熱いも冷たいもない訳で、即座に食いついてもかまわない。だが、私はヨウイチが差し出したおやつの類は一度前足ではたき落とし、そののち憤慨する彼の文句を聞き流し、それを寝場所に運び去るのが常だった。
 私はヨウイチの憮然とする様子が愉快でそうした行為を繰り返していたのだが、あるときふと自省の念が湧いてきた。
 私はヨウイチに対しては傍若無人な振る舞いをしているが、それは一種の甘えではないだろうか。ヨウイチは文句を言っても本当には怒らない。懲りずにお土産を持ち帰る。それが私に判っていたから、安心して我儘な態度を取っていられたのだ。
 その考えは少なからず私の気持ちを滅入らせた。
 人間なんて、二度と信用するものか。金輪際、主持ちの猫にはならない。
 そうした私の決心はどこにいってしまったのか。いつの間にかこんなにも彼らを当てにするようになっていた。
 もし今後、彼らが私を従属させようと図ったら、大した抵抗も出来ないうちに服従するようになるのだろうか。
 そのことに気づいて以来、しばらくは食欲さえも無くなるような気分でいたが、彼らはもちろん私のそんな心中を知る由もなかったようだ。
「柳、アイスを食べないか」
 暢気な声でヨウイチがヤナギを誘う。
 今夜のヨウイチはまずまずの時刻に帰った。つまり食事を一緒には出来ないものの、ヤナギが就寝するまでに猶予を残した時刻である。
 浴室から戻った彼は髪をタオルで拭きながら、冷蔵庫のドアを開けた。
「紅茶で良いな。それともたまにはこっちのバニラにしてみるか」
「俺は紅茶の方が良い」
 ヤナギの返答にうなずいて、ヨウイチがカップのアイスを持ってくる。それを手にヤナギのいるリビングのソファに座った。無造作に蓋を開け二口三口食べてから、ふとヨウイチは私の方に視線を向けた。
「なあ、黒デビル。最近食が細いんだってな。これは甘くてミルク味だ。こいつなら食べられるか」
 ヨウイチは木のスプーンでアイスを掬い、それを自分の手のひらに載せて言った。
「食べてみろよ。美味しいぞ」
 差し出された大きな手。白いアイス。甘い香り。私は要らないとそっぽを向くことも出来た。けれども私は身体を進め、彼の手のひらに自分の顔を伏せていった。
 もしも私がヨウイチに従順な様子を見せたら、彼もまた態度が変わっていくだろうか。私が従順でいることを望むようになるのだろうか。
 そんな不安が私を支配し、彼を試さずにはいられなくなっていたのだ。
 此処で一つ言い訳させて貰えるならば、私は日常彼らを疑っていたのではない。ただ、これまでの経験で深く根付いた人間不信はそう簡単に拭えるものではなかったのだ。
 かなり複雑な心境で私は舌を動かしていたのだが、ヨウイチは嬉しそうに隣のヤナギに話しかけた。
「見ろよ、柳。美味そうに食ってるぞ」
 前屈みになっていたヨウイチがヤナギを見上げて笑いかける。それからアイスの無くなった手のひらを首に掛けたタオルで拭いた。
「ん……と。やっぱりタオルで拭いて済ませたのは横着だったか」
 ヤナギの視線を感じたのだろう、ヨウイチが気まずそうに問い掛ける。
「いや。俺は、それがどんなものだろうかと考えていた」
「それって?」
 ヤナギがヨウイチの手を見て言った。
「黒デビルの舐めたアイスだ」
「ああ、それならこっちも食ってみろよ」
 気軽にカップを差し出した。しかしヤナギは受け取らない。ややあって、ヨウイチが問い掛けた。
「……もしかして、黒デビルと同じやり方で食べたいのか」
 ヤナギが微かに首肯する。ヨウイチはしばらく躊躇っていたあとで、アイスを一掬い手に載せた。
「ほら」
 差し出された手の上にヤナギが唇を近づけた。薄っすらと口を開いて、伸ばした舌先で白い塊に触れていく。
 猫とは若干形が違っているものの、綺麗な色の舌が動いていくたびにアイスが少しずつ減っていった。
 伏せられた横顔が睫毛の長さを強調している。舐め取るもので濡れた唇。ピンクの舌が出入りすると、そのぶんだけ白い塊が無くなっていく。
 見た目にも残りが少なくなったとき、ヨウイチがわずかに手を震わせた。おそらくヤナギの舌を直接手のひらに感じたのだろう。
「美味しいか」
 咽喉の奥に絡まって出て来たような声だった。
 ヤナギは微かに舌を鳴らして最後の塊を舐め取ると、
「うん。美味しい。傭一、もっと欲しい」
 顔を上げてヨウイチにそう告げる。しかしヨウイチはアイスとスプーンを近くのテーブルに置いてしまった。それからヤナギの顎の下に手を添えて、彼の唇に触れ合うだけのキスをした。
「アイスを舐めるのと、これの続きとどっちが欲しい」
 鼻先がくっつくほどの位置で聞く。
「……俺はこっちの方が良い」
 ヤナギがそっと顔を近づけ、濡れた舌先でヨウイチの唇に触れていく。
 私は二人から目を逸らし、水を飲みにその場を離れた。このあとの成り行きは見ていなくても判るからだ。
 皿の上に身を伏せて舌音を立てながら、私は心の平穏を取り戻した自分を感じた。
 彼らは従順な飼い猫なんか求めていない。彼らはこの家にいるときは、相手のことしか考えていないのだ。きっとヤナギはどこにいてもそうだろう。
 だから彼らは私に過度の期待も関心も持ってはいない。私は私のままで良い。自由に振舞ってかまわないのだ。
 私は背を伸ばし、ひとつ大きく伸びをした。

 テーブルに置かれたアイスがゆっくりと溶けていく。
 冷たいアイスと熱いキス。
 彼らはきっと私のような猫舌ではないのだろう。もしも私に選ばせてくれるなら、甘くて冷たいアイスの方を取るに決まっているからだ。

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