一月二十八日(曇)

 季節は冬の最中でも、私達猫にとっては繁殖シーズンの到来だ。繁殖と言ってしまうと、身も蓋もないのだが、本能が何より先立つ私達の場合にはこれが実状に一番近い。
 私はその日、三毛の雌猫にあっさりふられて帰宅した。
 まあいいさ。そんなに気に入ってはいなかったから。
 胸の裡で呟く言葉は、どう考えても負け惜しみ。
 最近私の体型は常に適正なものであり――これは同居人のヤナギのお陰だ――自分では雄猫として決して不足が在るようには思えないが、残念ながらこれについては相手が決めることである。
 私は同じマンションにいるボス猫のブッチみたいに、体格にものをいわせて事を行うのは好まない。ブッチは良い奴では在るが、そこのところの考え方は違うのだ。
 そんな訳で、私がやや憮然としながら、その日の夕食を摂っていたときだった。
「ん? 何だ、それは」
 聞いたのは、私のもう一人の同居人、ヨウイチである。彼がめずらしく早い時刻に帰ってきて、ヤナギの手元に目を向けたのだ。
「友禅の反物だ。京都から送ってきた」
「買ったのか」
「いや。これはお礼に貰ったものだ」
 ヤナギが言うには、ネットで知り合った友禅作家に相談されて、その頼まれ事を果たしたら、大層感謝されたそうだ。
 ヤナギの日常は規則正しく変化には乏しいが、その内情は決して単調なものではない。ヤナギ自身はどこへ出掛けることもないが、縦横にはりめぐらせた電子の網が彼に膨大な視力と手足を与えているのだ。
「見てみるか」
 ヤナギが反物を広げていく。ヨウイチはリビングのマットの上に膝をつき、
「桜の模様か。綺麗なもんだな」
 その反物は一面に花の意匠が施された、それは見事なものだった。地は黒で、そこに爛漫の桜と琴が図案化されて描かれている。
 その美しさに目を奪われた私だが、まもなくヤナギの膝元に写真があるのに気がついた。
 前脚を写真に載せて、「にゃあ」と鳴くと、ヨウイチもそれに気づいて視線を向けた。
「あれはどこの写真なんだ。池と、その木は桜のようだな」
「うん。その桜を探していたんだ。彼が昔、失恋して旅に出て、関西を中心に何日も徒歩だけで歩き回った」
 それは二十年程昔の話で、幾日も放浪した末、奈良の山奥でその風景を見たそうだ。
 深閑とした山の中。池の周りと水面には今を盛りの桜が広がる。彼はその光景を目にした瞬間、なんとも言えず怖くなり、そこから走って逃げたのだった。
 そののちに彼は友禅作家となって、思いたって幾度となく記憶の場所を探したが、今まで見つからなかったそうだ。
「どうして彼は景色を怖がったのだろう。桜と池があるだけなのに」
 ヤナギは人より情緒に乏しい面がある。彼の恐怖が理解出来ない様子だった。
「美し過ぎるものの中には魔性が宿ると言うからな」
「魔性?」
「ああ。人智を超えた綺麗なものには魔性が宿る。それを感じて、心の中にそうしたものを棲まわせるのが人間だ。おそらく彼は桜もそうだが、『それ』を見たいと思っていたんじゃないのかな」
 それからヨウイチはちょっと笑って、
「だけどこの写真。今の季節は枯れ木だな。こんなので良いんだろうか」
「ああ。それで充分だと書いてきた」
「そうか」
 ヨウイチはそれだけ言って、うなずいた。
「それと同封の手紙には、この反物は女性のためのものだから自由に使って欲しいとあった」
「誰か大切な相手があれば、そいつを仕立てて着て貰う。それが前提のお礼なんだな」
 私は片耳を斜めに倒した。ヨウイチの声音には、僅かに苦味が込められていた。
「じゃあ、置いとけよ。いつか」
 ヨウイチの声が途切れた。ヤナギが反物を繰り広げ、ヨウイチの肩の上にかけたからだ。
「な、何だ」
「仕立ててもいいのだが、傭一の寸法では生地が足りない」
 桜の友禅が傭一の上半身に巻きつけられる。優美な花柄と、凄みが在るほど目つきの悪い男との取り合わせ。そぐわないこと夥しいが、ヤナギはよく似合うと言った。
「柳」
 反物の片端がマットの上に落ちて転がる。
「あっ……ん、ん……っ」
「知ってるか。時折柳はそうやって、やっちゃいけないことをするんだ」
「お、れがっ……何を……っ」
 押し伏せられて、露にされていく白い肌。鎖骨の上につけられた紅い痕。二人の間で描かれた桜が踊る。
「そんなふうに無自覚に、俺を乱して煽ることをだ」
「んっ……よういちっ……あ……」
 そうじゃないと言いたげに首を振る。
「違う……けど……」
「けど、何だ」
 はだけたシャツを直しもせずに、ヤナギが掠れた声音を洩らした。
「……そうしているなら、いいと、思う……」
「柳……」
    
 私は尻尾を二人に向けると、いつもの寝場所に歩いていった。
 柔らかな敷布の上に丸まって、無心に目を閉じたとき、ふと瞼の裏側に一つの光景が浮かび上がった。
 それは淡い衣装を纏った美しい女性の姿。黒い髪。白い肌に血の色が薄く透け、その顔立ちは凄絶と言ってもいいほど美しい。
 女は艶麗な顔貌を池の面に映している。その上にとめどなく舞い落ちる花びらが。
 ああそうか。これがきっと――。
 春はまだ遠い夜。私はそれを胸に沈めて、眠りの中に落ちていった。

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