九月四日(快晴)

 九月もすでに四日を過ぎた。なのに、この暑さはどうだ。日が昇ると同時に暑い。いや、それ以前から気温が高い。夕立すら降らなくて、近くの公園の草木は萎れて茶色みを増している。
 私は夕方の散歩が好きだが、ここ久しく長歩きはしていない。その時刻でもアスファルトはまだ熱く、無駄に出歩く状態ではないからだ。今日の朝、学者猫のヨツバに会って聞いたところ、この暑さは当分続くと言うことだった。
 やれやれといった気分で、私は毛づくろいをし始めた。場所はマンションの一室で、ここは私の同居人ヤナギとヨウイチがともに暮らす家でもある。
 日没だけはさすがに早くなった昨今、テラス窓の向こうは暗い。ヤナギも帰宅を済ませており、夕食用にとそうめんを茹でているところだった。
「暑かったぞ、くそ」
 そこに悪態をつきながら帰ってきたのはヨウイチだ。
「たまらんな。この暑さ」
 キッチンに入ってきながら、何度も暑い、暑いと言う。
 ヨウイチは大きな男で、それがサウナから出たきたような様子でいるのは、いかにも鬱陶しく暑苦しい。対するヤナギはいつもと変わらず涼しげな表情で、茹であがったそうめんをガラスの鉢に移していた。
「夕食は?」
 こう聞くまでにヤナギがヨウイチを凝視して彼を確認していたのは言うまでもない。ヤナギはヨウイチと離れていたあと、最初に彼を見るときはそうするのがつねだった。
「まだ食ってない」
「それならこれを一緒に食べるか」
 同居の相手にヤナギがわざわざ聞いたのは、ここ最近のヨウイチは夜間に出ることが多いからだ。いったん自宅に帰ってきても、しばしば電話で呼び出されて仕事に出かける。
 しかし、今夜は外出の予定は入っていないらしく「そうめんか。美味そうだ」と破顔した。
「だけど、その前にシャワーを浴びる。駅からここまで歩くだけでも汗びっしょりだ」
 ヨウイチがそう言うと「そうか?」とヤナギが相手を眺める。
 今夜のヨウイチは長袖シャツにスラックス。いつもと同じくネクタイはしていない。ジャーナリストというよりは危ない職業に就いているような男の顔が、自分より遥かに華奢な男の視線に一瞬たじろぐ気配を見せた。
「俺が、こうして……柳と向き合うのは六日ぶりか?」
「六日と三十七分ぶりだ」
 生真面目に答えるヤナギをヨウイチが引き寄せる。輪にした腕で細い身体を囲い込み、こつんと額に自分のそれをつけてから、なにかに気づいた表情で身を引いた。
「やっぱりシャワーを浴びてくる。こう汗臭くちゃ、柳だってかなわないだろ」
「俺は平気だ」
 ヨウイチは困った顔で頭を掻いた。「ええと」と呟き、あてもなく周囲を見渡す。その視線が毛づくろいの最中の私にとどまり、
「猫は汗を掻かないのかな」
 といささか馬鹿げた感想を洩らしたのは、彼が困惑している証拠だ。
 たぶんヨウイチは汗臭い汚れた身体でヤナギに触れるのを遠慮しているのだろう。今さらだと私は思うが、人間のメンタリティは猫のものとは異なるらしい。あるいはそういうことでもなくて、ただたんに照れているのか。ともかくヨウイチの感想にヤナギは応じた。
「猫の汗腺は足にしかない。肉球のところにだけエックリン汗腺があり、怖いときや緊張したとき冷や汗をそこに掻く」
「汗を掻くのはそこだけか?」
「そうだ。その代わり、身体を舐めて唾液が蒸発するときの冷却効果で体温を下げるんだ」
 ヨウイチが感心したような声を出し、私も(へええ)と同じような思いをいだいた。
 そうなのか。これは暑さをやわらげる効き目があったか。
 私は前足を一舐めしてから、汗ひとつ掻いていないヤナギに再び目を向ける。すると、彼はゆるやかに手を上げた。
「人間は汗を掻いて、身体の中の熱を下げる」
 繊い指が汗ばんだ男の顔に触れるか触れないかまで近づいたとき。ヨウイチがその手を掴み、自分の胸板にぶつける勢いでヤナギの身体を引き寄せる。
「……そんなに煽ってくれるなよ」
 なにかをこらえているかのようにごく低く呟いた。ヤナギはそれには応えずに、逞しい男の胸に顔をうずめてじっとしている。ヨウイチはぎゅっとヤナギを抱きしめて、その耳元に囁いた。
「今夜は柳を汗まみれにしていいか。エアコンを切った部屋で、ぐちゃぐちゃに乱れさせて。髪の毛から爪先まで滴るくらい柳をびしょ濡れにしていいか」
「うん。俺を傭一は濡らしていい。乱れさせて、汗まみれにさせていい」
「柳――」
 綺麗な色の唇に男の顔が近づいていく。
 私はやりかけの毛づくろいを済ませると、部屋でもっとも涼しい場所に移動した。
 今夜、二人は互いの熱を高め合いそれを発散することで、心と身体の調節をするのだろう。暑い夜に、狂おしく募る熱をぶつけあって。
 男を受け入れ上気した頬。水に浸かっていたかのように濡れて光る白い肌。熱い吐息。喘ぐ声。淫らに湿って粘る音。
 いまだに続くこの猛暑には、そうした一夜も似つかわしいような気がする。
 我を忘れて熱流に身をまかせ、それを放ち、そしてまた――。
 狂熱に侵されてただひたすらに互いを貪る。そんな夜もこの夏の名残にはふさわしい。
 ヨウイチの部屋のドアがパタンと閉まる。私はまたも暑くなる明日を待って目を閉じた。

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