八月二十日(曇)

 暑い夏の昼下がり。私はふっと転寝から引き戻された。玄関で音がして、誰かが室内に入って来たのだ。フローリングの床の上で私は急いで身体を起こした。
 見ればそれはヨウイチだった。時は平日の昼間である。驚く私を横目に見、ヨウイチは自分の部屋へ入って行った。もちろん私も何事だろうと後を追う。
 ヨウイチの部屋はヤナギのそれと比べ、綺麗に整頓されているとは言い難い。付箋のついた資料本やファイルの類が机や床に山と積まれているからだ。ヨウイチはクロゼットの扉を空けて、何か探しているようだ。此処にも雑多なものが乱雑に押し込まれ、ヨウイチが奥から本を引っ張り出すと、手前にあった紙箱がはずみで横に転がった。
「やっぱりあった。こいつだな」
 ヨウイチが開いているのは、他と比べて大きめの本だった。硬い表紙と厚手の紙。そこにはたくさんの写真が印刷されている。
「これは卒業アルバムなんだ」
 床に座ったヨウイチの脇へ行って覗き込むと、そんな説明が返って来た。
 この男には未だに稚気が残っているのか、猫相手でも気にせず話しかけてくる。
「ちょっと仕事絡みでな。この頃の相手の顔を調べておく必要があったんだ」
 私は納得し、次いで散らかったクロゼットに視線を転じた。横に倒れた紙箱からは色んなものが零れ出し、床の上に広がっている。それは旧い書類などを納めていた箱らしく、印刷された紙束や手書き文字のメモの類、それに混じって手紙やポストカードもあった。その中の一つである薄青い封筒に興味を引かれ、私はそれを前足で引っ繰り返した。
「何だ、そいつは」
 横からヨウイチが封筒を摘み上げ、表書きに視線を落とした。
「ああ、これはあのときの」
 ヨウイチが封筒を裏に返して、そこの文字を目で拾う。あまり嬉しくはなさそうな、微妙な表情になっていた。
 私は理由が知りたくて、「にゃあ」とヨウイチの膝の上に前足を片方載せた。
「こいつはな、柳に宛てたラブレターだよ」
 ヨウイチが苦笑いを浮かべて言った。
「高校の時の話だ。隣のクラスの女の子から柳に渡してくれと言われた」
 それからヨウイチはその封筒を再び箱に仕舞い込み、散らかっていた他のものも片付け始めた。私は彼の背中を視界に映しつつ、その折の状況を自分なりに想像してみた。
 高校時代のヤナギの姿。当時の人々はヤナギのことをどう思い、どのように接していたのか。
 類稀な美貌の持ち主。そしてヨウイチ以外の者には一切関心を示さない、奇矯な性格のヤナギのことを。
 おそらくは学校内でもヤナギの美貌は非常に目立っていたはずだ。彼の外見だけに触れ、憧れる人間も後を絶たなかったろう。それから直に彼と接して、反感を持つ者も多くいたに違いない。ヨウイチにしか反応しない彼の態度を、高慢で冷淡だと解釈するのもある意味無理はなかったろうから。
 そしてヨウイチはそんな彼の傍にいて、ずっと見守り続けていたのだ。
 それは果たしてどのようなものだったろう。
 今と同じくヤナギのことを好きでいたなら。彼に思いが通じるまでは、おそらくは楽しいことより苦しいことが多かったに違いない。
 例えばあのラブレター。女の子からヤナギへと手紙を頼まれ、相手の気持ちを慮って突き返すことも出来ずにそれを受け取る。
 これはあくまで想像の範囲だが、多分そのような流れではなかったか。

 思い悩んでヤナギに手紙を差し出すと、彼は一欠片の興味も示さず、受け取る素振りも見せないままだ。無理に手渡せば、ヤナギは手紙を開封せぬまま捨てるだろう。安堵しつつ、しかしそのことが後ろめたく、ヨウイチは苦悩の揚句、その手紙を相手に返そうとしたかもしれない。あるいはついに返しそびれてどこかに仕舞っておいたのか。どちらにしてもその手紙は行き場を失くして、ヨウイチの所持品の一部となった。
 ヤナギを密かに思い続けた十年間。そして一緒に暮らし始めた一年あまり。ヨウイチはどのような心を抱えてヤナギの傍にあったのだろう。
 クロゼットを片付け終えて、ヨウイチが卒業アルバムを拾い上げた。部屋を出る前に、もう一度だけ頁を開く。落とした視線の先にあるのはきっと高校時代のヤナギ。ヨウイチは静かな表情をしていたが、眸の深さでそうとわかった。
 彼らが経てきた十数年。そしてまたこの先の十年間。そしてまた――。
 私はそのときの彼らを見ることはないだろう。猫の寿命は人のそれとは違うからだ。
 私には叶わないと知りつつも、あえてそのときを夢に見る。
 年を加えて人間的な厚みを更に増したヨウイチ。そしてその傍らに変わらず寄り添うヤナギの姿。
 ヨウイチがお土産のキャットフードの缶を開く。ヤナギが私を膝に載せ、ブラッシングをしてくれる。そんな幸せな情景を夢に見る。
(黒デビル……)
 穏やかな低い声が私の名を呼ぶ。それから硬く澄んだ響きのあの声も。
 遥かに遠い――それは淡く優しい色の夢のひととき。
 流れゆく年月がいつか私の姿を消しても、その夢だけは彼らの傍にあるだろうか。
 ひっそりと。時の狭間で揺らめく影のようにして。

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