草食むイキモノ 肉喰うケモノ (二見書房 シャレード文庫)
今城 けい/illustrator 梨 とりこ様
関目に牧野が励まされるシーンです。
牧野が宝物箱に収めていたガムをもらったいきさつは、こんなふうに起こったことです。
あれは牧野が入社して半年くらい経ったころのことだった。
――おい。持ってきたついでにそれを替えといて。
依頼のあった蛍光灯を管理棟の三階まで持っていったら、そこの課のひとが顎をしゃくってそう言った。
――ええと……あそこに手が届きませんが?
――あったりまえだろ。頭悪いな。脚立を使えよ。
天井を眺めて牧野が困っていればイラつく口調で叱られた。
それで、牧野は大あわてで備品室に取って返して、持ってきた脚立にのぼる。けれども点灯したままの蛍光管は手に熱く、どうにかそれを外せたもののしっかり握っていることができなくて、牧野の指から落ちてしまった。
――あっ……!
――あぁあー。割ったか。なにやってんだよ。
――すみません! すぐ片づけます。
床に落ちた蛍光灯はパンという音とともにこなごなになってしまった。
三階の清掃用具がどこにあるかもわからずに、またも牧野はホウキとチリトリと、新たな蛍光灯を備品室まで取りに行く羽目になる。そうして不機嫌全開の中年の社員にあやまり、なんとか作業を終えたとき。
――おたくさあ、正社員? いまいくつ?
――はい。十六歳になりました。
――それはどうでもいいけどさ、もっとしっかりやってくれよ。蛍光灯を割ったのもそうだけど、そこに掃除用具があるの、気がつかないとかおかしいだろう? なにを無駄に時間ばっかり食っているわけ?
明らかに怒った顔で、壁に並んだロッカーのひとつを指差して叱責される。牧野は両肩をすくめながらふたたび男にあやまった。
――あーもういいから。自分の持ち場に帰りなよ。
手を振って追い払われれば、黙ってそこから出ていくしかない。脚立と掃除用具を持って、部屋を去っていく牧野の背中に、
――中卒か。使えねえな。
舌打ちまじりにそんな声がぶつかってきたけれど、本当のことからだと思う以外にできなかった。
まだ何事にも不慣れな牧野は、あちこちで似たような失敗をやらかして相手を怒らせ、きついセリフを言われる場面も少なからずあったのだ。
そののち、うつむいて階段を下りていき、二階の踊り場まできたときに、そこの扉がふいにひらいて、牧野の眼前にひとりの男が飛び出してきた。
――あっと、悪い。
反射でよけて、背の高い男が牧野の顔を見直す。
――あれ? おまえ牧野だろ。こんなとこでなにしてんだ?
問いかけたのは牧野が知っている相手、入社式で隣に座った関目だった。
あの際に牧野を助けてくれた男は、そののちおなじくさいたま工場に配属された。だからここで偶然会うのも不思議ではないのだけれど、とっさに声が出てこない。
牧野が黙って彼をただ見ていると、高い位置から伸びた腕に頭をぽんぽんと叩くように撫でられた。
――元気出せ。おまえはちゃんとやってるよ。
手にしたもので牧野の状況を察したのか、そんなことを彼が言う。
――一生懸命やってんのって、わかるやつが見ていりゃわかる。
――あの……関目さんは、おれのことをおぼえてました?
牧野自身は入社式で隣の席に座った男のことを記憶のなかにとどめていたし、そののち彼がこの工場に配属されていたことも遠目に見て気がついていた。
けれども、あのあと関目が牧野に話しかけることはなく、こちらに興味がないのだろうと思っていたのだ。
――そりゃもちろんおぼえてるさ。俺たちは同期だろ?
なのに関目は当然みたいにあっさりと告げてきて、スラックスのポケットを手探りした。
――ほら、やるよ。これでも食っとけ。さっき、保険のおばちゃんにもらったんだ。
差し出して、牧野の両手がふさがっているのに気づき、作業服の胸ポケットにそれを入れる。
関目が牧野にくれたのは、生命保険のシールが貼られたガムだった。
――そんじゃ、またな。頑張れよ。
言うなり彼はさっさと階段を下りていく。踊り場の片隅で、牧野はいったん脚立を置いて、胸ポケットに手を当てた。
(俺たちは同期だろ……?)
視線こそ高い位置からであったけれど、おなじ横からの言葉で語ってくれた関目。
こだわりのない彼の気持ちが、家族を亡くして固まっていた牧野の心を揺り動かした。
それはほんのささいな出来事だったけれど、牧野の胸に『日常』がどんなものかを呼び起こさせた。
家族がいて、友達がいて、なんということもない親しげな言葉を交わす。忘れかけていた『あたりまえ』を関目はたしかに思い出させてくれたのだ。
(……ありがとうございます)
灰色だった景色にうっすら色がつく。牧野はしばらく胸に手を当て、そこから動けないでいた。
つかの間、階段を利用するひとたちが途絶えた空間。牧野の耳は多くの物音を苦もなく聞き取る。
たとえば扉を隔てた先の、電話の着信音だとか。一階のシュレッダー室に置かれた機械が書類を切り裂く音だとか。床を歩く女性社員の靴の踵の音だとか。
だけど、そういう音とはべつに牧野はどくどくとなにかが流れる物音を聞いていた。
たとえば、そう――自分の命の物音だとかを。
シャレード文庫「草食むイキモノ 肉喰うケモノ」には直接書いていなかった、関目と牧野のエピソードです。