五月十三日(曇のち雨)
その夜、私が散歩を終えて帰ってみると、ヨウイチが部屋にいた。彼にしては早い時刻だ。シャワーを浴びた直後なのか、タオルで髪を拭きながら冷蔵庫を開けている。そこからビールを取り出して、ヤナギのいるリビングのソファに座った。
テレビのリモコンに腕を伸ばしたヨウイチは、ふと手を止めてヤナギに訊いた。
「なあ、柳。クジラが歌うって知っているか」
今日ヨウイチは仕事の出先で【ナショナルジオグラフィック協会】のカメラマンと会ったそうだ。
海洋生物が専門のカメラマンは、殊にクジラの魅力についてヨウイチに語ったらしい。
「なんでも仲間内のコミュニケーションの一種らしいが」
「知っている」
ソファに端然と座ったヤナギは、軽くうなずくと言葉を継いだ。
「ザトウクジラを代表とするある種のクジラは一定の季節が来ると音を発する。その音は階層構造になっていて、同じフレーズが反復される。同一の主題が多重に繰り返されるところから、それが人間の『歌』のようだと言われている。その音は求愛の一種だとも、視界が悪い海中での活動に補助的に使われているのだとも言われるが、正確な検証は出来てはいない」
「詳しいな。柳は聴いたことがあるのか」
「ある。傭一も聴いてみるか」
「ああ。出来るのなら聴いてみたいな」
そうして二人はヤナギの部屋に移動した。もちろん私も後を追う。好奇心が強いのは持って生まれた性分だ。
ヤナギはデスクの前に座り、パソコンを操作した。まもなくそこから低い音が流れ出る。
それは――なんとも不思議な音だった。
低く単調なフレーズの繰り返し。人間の歌声とも、猫の鳴き声ともまったく違う。
最初私はこれが本当に歌と呼ばれるものなのか訝しく思ったが、しばらくするとその音には独特のリズムが在るのに気がついた。
同一のフレーズが反復され重なり合って、深く静かに流れていく。その音声は以前彼らと行ったウミを強く想わせた。
それは砂浜に打ち寄せる波に似ている。飽きることなく繰り返される波の韻律。
また、それはウミを吹き渡る風にも似ている。留まることなく流れていく風の調べ。
「……なるほどな。これは確かにクジラの歌だ」
ヨウイチがぽつりと呟く。そうして再び口を閉ざしてクジラの歌声に聴き入っている。
何時しか外では雨が降り出したようだった。少し開いた窓からは湿った空気が流れ込む。
直感的に私は思った。
この雨は私や彼らの居る場所とクジラの棲む場所を繋いで廻る。この地を、空を、そしてウミを、一瞬も留まることなく巡り廻る何か途方もなく大きな存在。
静かな夜。私は遥かに想いを馳せつつ、どこか物悲しい歌声を耳にしていた。